小柳博彦・ ヨーロッパ転戦記

〜ヨーロッパ、馬と家族で8万キロ〜


(全3話)


















〜ヨーロッパ、馬と家族で8万キロ(1)〜

ドイツからの引越し荷物もまだほとんどそのままに、新たに整形外科クリニックを開業して10ヶ月が過ぎました。
医師としての生活をやめたのが1999年3月、それから単なる馬乗りとして5年近く、ヨーロッパをうろついてきました。
もともと他人様に報告するつもりなどまったくなかったので、残っているのは競技会のVIDEOばかりといったところです。
しかし、こんなことにでも興味を持ってくださる方がおられるので、いつかは何らかの形にまとめようと思っていました。
今回思いもかけず、原稿の依頼をいただきましたのでサマリーだけでも書きはじめることにします。



 ヨーロッパ馬乗り遠征の次第をまとめてみます。
両親ともに送り、35歳ごろから願っていたことをやっと実現するに至ったのです。すでに51歳。
いろんな方面に無理をお願いすることにはなったのですが、一度きりの人生。なんら迷いはありませんでした。
第一の目的は、本物をこの眼で確かめたかったこと。
私自身、日本ではそれなりの馬乗りとして知られていましたが、所詮、ローカルヒーローに過ぎません。本場の馬術の世界は思っていた以上に刺激的でした。とても太刀打ちできる段階ではないことを痛感しました。
もうひとつの目的は、通訳を介さずに外国の方々と意思の疎通をはかることでした。家内もびっくりするような私の語学力ですが、大きな失敗もなく本人は満足しています。 一時期レッスンに頼んでいた通訳も「酷いけど通じる(!)からいいのでは」と辞めてしまいました。
住んでいたあたりで、ドイツ人に道を尋ねられたこともあります。ドイツ語で教えてあげ、理解してくれたようでした。しかしながら私のドイツ語力は謎としておきましょう。



馬に関してのあとひとつの目的は、愛馬EFFECT号を故郷に連れ帰ってやることでした。
4歳でドイツから日本に売られたハノーバー種のEFFECTは、8歳の時に私が購入しました。
それからの彼は私のよき相棒として、ともに日本国内の競技会に出場してきました。1999年EFFECT号16歳の秋に行われた全日本大会を最後に、日本での競技を終え、2000年春にオランダに渡りました。その後2000年秋から2003年夏に19歳で引退するまでの間、高齢をおして私のヨーロッパでの競技会のほとんどに同行してくれました。
20歳になった彼はいま、故郷ハノーバーの緑豊かな牧場で隠居暮らしを楽しんでいます。(このことはTV東京「わが愛しの馬たち」)で放送されました。)



 さて1999年3月に小柳病院を退職し、4月よりフランス、スペイン、イギリスを経てオランダへ。 2ヶ月をかけて探し回り、一頭のオランダ産馬購入。名前はINDIGO。 名前のとり、購入字は青毛といって本当に青く光るほど真っ黒の美しい馬でした。 しかし、トレーニングを進めるうちに、なぜかだんだん色があせてきてとうとう褐色になってしまいました。 (スプレーでも振りかけてあったのか、などとアホーなことをいっています。)
調教程度が低く競技会ではまだ使えなかったので、 オランダに住む日本人の古い知り合いの厩舎に預託して調教を開始しました。
1999年7月イギリスで語学学校に通ったものの、これではものにならないと急遽帰国。 夫婦でベルリッツへ通うことに。ずいぶんお金がかかりました。 あいにく語学力は変わりませんでしたが、外人と一対一になることにストレスを感じなくなったのが収穫でした。
この間に家内の妊娠が判明。なんと43歳初産です。
その後もオランダと日本を行ったり来たりの生活でした。



 1999年12月から2000年1月は身重の家内と共にオランダを拠点にしてドイツ、ベルギーなどで馬術の国際競技会を見て歩きました。
寒い季節になるとインドアで行われるようになる馬術競技会は、冬が暗くて長い北ヨーロッパの人々にとって大きな娯楽のひとつです。華やかにライトアップされた競技場には、バレエやオペラの劇場のように超満員の観客がつめかけます。入場料もいい席ですと5,000円以上はするのです。そして真夜中まで競技が続くのですが、ほとんどの人は帰らずに最後まで見ています。全ての競技が終わった深夜、入賞した見事な馬たちが、ラデツキー行進曲の鳴り響く中、艶やかな毛並みと化粧馬着を目映いライトに煌めかせ、意気揚々とウイニングランをするのを見るのは、本当に心が浮き立つものでした。
2000年3月。自分自身で調教し、1997年には全日本ランキング一位になった愛馬EFFECT号を私が添乗して成田からKLMに乗せました。オランダ、スキポール空港に到着。乗客は気づいていませんでしたが、普通のKLMジャンボ機の後ろ3分の1を仕切った壁の向こう側には大柄な馬術競技用馬が乗っていたのです。何十人分かの運賃を払ったのにマイレージはつきません。残念。


 2000年4月、息子誕生。2000年に生まれたので今何歳か計算しやすそう。ついでに名前も辰年のため辰(SHIN)に。これも覚えやすいと自画自賛。 私の博彦(HIROHIKO)は外人には厄介なようで、競技会ではアナウンサーがいつも発音に苦労していました。SHINは簡単。国際的な名前をつけてもらって将来きっと親に感謝する日が来ることでしょう(?)。 (ドイツ人小児科医には、受信時に毎回「SHINなのか?CHINなのか?」と聞かれていましたが…。)









  ヨーロッパに長期滞在するには査証が必要です。企業に勤務していて、派遣で来る場合や、留学の時は比較的簡単に取得できます。しかし個人で手に入れるのは難しく、3ヶ月ごとに帰国のパターンを取る方が多いのです。
私は馬が居るので何とか査証を手に入れたいと思いました。
オランダでは査証を取るのは現実的に不可能なことがわかり、今後の行動に制約ができるため、ドイツに移住して査証を申請することにしました。
私のようにヨーロッパに何年も滞在してどこにも所属せず、馬の競技会に出る人間が今までにいなかったので、ドイツ大使館も随分と処遇に困ったようでした。
結局ドイツ人馬術審査員を妻とする日本人の馬乗りに頼んで保証人になってもらい、何とか一年間の査証が取れました。その後、2年毎の更新も難しい面が多々ありましたが、 最後はドイツ馬術連盟がドイツにおける私の実績を認めてくれ、2006年にドイツ、アーヘンで行われる馬術世界選手権までの滞在許可が下りました。
2000年7月、保証人になってくれた日本人の馬マイスターの厩舎に2頭の馬たち、EFFECTとINDIGOを預託することにしました。馬マイスターといっても彼は単なる乗馬学校の教師であり、競技選手ではないため、 その後の競技生活はすべて自分で切り開かなくてはなりませんでした。
ドイツでは馬術競技の世界は確立されており、東洋人がいくら競技会に出たいといっても簡単に許可が下りません。 日本人の馬術連盟もいい加減で、国際競技のエントリーの件でトラブルになり、スポーツ仲裁機構に連絡を取ったところ、あわててエントリーの許可を連絡してきたこともありました。 まだまだ日本の馬術連盟などは国際馬術連盟の中では田舎ものなのです。

>>ヨーロッパ、馬と家族で8万キロ(2)へ
>>Topへ戻る
京都保事協ニュース 2005.1月号 No.534掲載